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教育の大切さと20歳過ぎたら自己責任という考え方
三つ子の魂百まで
成人した人が罪を犯すと、「自己責任」と言われることが非常に多いのが気になります。
親に責任はない、当事者に全責任がある、という文脈で良く見聞きします。
果たして本当にそうなのでしょうか?
一方で、最近twitterで下記のツイートがバズっていました。
最近聞いた研究で一番興味深かったのはこれ。
「生後約3年間の、物心つく前の子供に対する『世間話的な余計なお喋り』の量や頻度と、その子供が成長した後の語彙や読解力の試験の成績の良し悪しとには、強い相関がある。
しかもこのことは、親の所得の大小や親の学歴の良し悪しに左右されない。」
— Hiroshi Watanabe (@Hiroshi99857672) September 21, 2020
このツイートからもわかるように、どんな大人になるのか・・・それはどんな環境で育ち、どんな教育を受けてきたかに大きく依拠するように思います。
三つ子の魂百までということわざがありますが、長い間、風化せずに来た言葉はやはり本質を射ているのだと思いました。
ポテンシャルを定めるものは
本人の努力ではどうにもならない次元で、育った環境や受けてきた教育が各人のポテンシャルの上限を定めてしまっているではないか、と疑問に思うことがあります。
努力に意味がないとか、努力ではどうにもならないとか、そういうことを言いたいのではありません。
生まれてから大人になるまでにどんな時間を過ごしてきたか、それがその人の一生を左右するほど大事なものなのではないか、ということです。
少年少女が罪を犯すと、家庭環境や生い立ちに焦点が当てられることが多く、そんな環境じゃなければ、そんな生い立ちじゃなければそんな罪は犯さなかったのではないか、と。
でもそれは成人した大人であっても同じではないのか、と思ったりします。
20歳を過ぎて罪を犯した人も、20歳までの時間(あるいは幼少期だけでも)をより良い環境で生きて来られたなら違った人生があったはずです。
翻って自分や周囲の人間に焦点を当てて考えてみると、子供の頃に良い環境で生活して来られたからこその今であり、あるいは、もっと良い環境で生活することができていれば、今以上の現実があったのかもしれません。
人は環境に強く依存する生き物です。
努力次第でなんとでもなる、なんていうのはきれいごとのようにも思います。
努力でなんとかできるのは、それを実現可能にできる環境で育ってきたからこそ言えるものであって、生存者バイアスがかかった意見ではないでしょうか。
教育の大切さについて
とりとめなく書いてきましたが、私が一番言いたいことは教育が何より大事なものだということです。
親から愛されて育った子供とそうでない子供が、同じように育つわけがありません。
しっかりとした教育を受けた子供とそうでない子供もそうです。
お金を掛ければ良いわけでもありません(佐世保女子高生殺害事件の両親は高学歴、父親は弁護士でおそらく教育にもお金はかけていたと思われる)。
私にはまだ子供はいません。
いつか子を授かることを楽しみだと思う気持ちと同時に不安もあります。
しかしいつか子供ができて成人し、大人になった時に、この家族で良かったと思ってもらえるようにできる限りのことはしたいと思います。
と、とあるニュースを見てふと思ったことでした。
今日の毎日一新
創作 Dining Bar Bistro Kuu 神保町のペペロンチーノ
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スタバの大学芋フラペチーノ
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