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えんとつ町のプペルが素直に観れない理由
えんとつ町のプペル
あまり興味がなかったのですが、妻の希望もありえんとつ町のプペルを劇場で見てきました。
キングコング西野亮廣が原作者であり、製作総指揮者ということで、観ている最中ずっと「これ西野の映画なんだよなー」というのが頭によぎり続けてしまい、純粋に観るのが難しかったです。笑
ゴッドタンに出てる時の西野氏は好きだし、凄い人だとは思うのですが、映画に関してはな色々と思うところがあります。
西野氏は凄い
細かいところで気になる点があるのは映画あるあるなんでさておいて、処女作でこれだけの完成度で作れるのはシンプルに凄いな、と思いました。
あれだけの世間の批判を浴びながら、これだけの作品を作りあげられるという事実は素晴らしいことだと思います。
しかしながら、名作を観た後のような、いつまでも映画の余韻にひたっていたい、そんな気分にはなれませんでした。
この映画は、泣ける、とか、グッとくる、とかいう感想よりも、凄い、という感想がしっくりきます。
個のマーケティング手法との違い
批判みたいになってしまいますが、西野氏のように個人で様々な表舞台で活躍し、濃度の高いファンを獲得するためにアンチも一定数抱えるようなマーケティング手法をとっている人が、映画のような大衆向けコンテンツを手掛けるのは相性が悪いような気がします。
特に西野氏は、テクニカルにマーケティング運用している印象があるので、映画作りにしても「こうやって作れば大衆は感動するっしょ」というような姿勢なんじゃないか、という勘繰りが生じてしまいます。
おそらく私のように考えてしまう人は、無意識の人も含めて相当数いるのではないかと思います。
個が表舞台で活躍するためのマーケティング手法と、映画のような媒体のマーケティング手法は根本的に違うものなのではないでしょうか。
You tubeやクラウドファンディングが舞台であれば、西野氏のマーケティング方法は絶大な力を発揮し、時に信者とまで呼ばれるような熱狂的なファンを獲得することはできるでしょう。
しかし、彼が口にする「ディズニーに勝つ」という目標を達成するためには、映画の作品に「個」の色はあまり見えていない方が良いのではないか、というのが持論です。
キャラクターが認知されている個人と作品が結びついてしまうとどうしても観客は先入観を抱いてしまい、大衆をターゲットとするビジネスでは功を奏することは難しい。
多くの俳優が宣伝のためにバラエティーに出てくることはあっても、映画監督が広くメディアに顔を出さないのは、それが映画のマーケティングとして良い手法ではないと理解しているからなのではないかと思います。
映画や小説といった作品を世に生み出す人の作品にかける想いは様々なインタビューで見聞きすることはありますが、私生活や政治観念、イデオロギー等の思想は作品に影響を及ぼしかねません。
個人の思想や哲学を知りたいのであれば自伝やエッセイを読めばいいのであって、多くの観客や読者は、そういった思いとは切り離された作品を望んでいるように思えてなりません。
勿論、どんな作品にも作者の願いや思いは必ずあるはずです。
しかし、それが特定の個人の思想と結びつくのはきっと望ましくないのでしょう。
「こんなすごいの作ったよ!」と受け止められかねない露出は、押しつけがましい印象を与えかねません。
ディズニーを超えるためには、ディズニーを超えたいという気持ちから解放されて初めて成しえる偉業なのではないでしょうか。
最後に
長々と書いてきて最後にようやく自分自身が一番言いたいことがわかりました。
誰がどんな思いで作ったのか知らずに観たい。
ただそれだけなんだと思います。